ガバメント・オブ・ザ・
リビングデッド
──「生きながら人生の墓場に入った」
と感じている公務員について
ゾンビ映画が教えること
若林恵
聞けば行政府に関する本というのは、本当に売れないのだそうだ。誰にも、まったく興味をもたれないということらしい。地方公務員も含めると三百万人以上いるというのだから、せめてその人たちが買って、読んでくれたらベストセラーになりそうなものだが、そういうものでもないらしく。
生馬の目を抜くビジネスの世界であれば、やれDXだ、やれUXだ、やれOMOだと新奇なタームを持ち出して、「これからはこれ!」と煽ってみれば時に大きなトレンドを生み出すこともあろうけれど、そもそも競争という概念に馴染まない公共セクターでは、新しいことや次に来たるべきものは食指が動かないのだろう。むしろ、そうした「新しいもの」や「次に来るもの」は、現状を脅かすものとして毛嫌いされているのかもしれない。
そのくせ、政治家も世間も公務員を叩くときは親の敵のように躍起になって叩くのだから、まったく興味がないのかと言えばそうでもなさそうだが、本を買うほどにはコミットしたくもないということなのであれば、空気のように粛々と黙って滞りなく業務を果たしてくれればいいといったあたりが正直なところか。余計なことはすんなよ、と。そして当の公務員もそういう存在として自らを任じているのであれば、そっとしておいてくれというのが偽らざる本音なのかもしれない。
とは言いながら、行政の現場はすでに疲弊しきっていて、財源も人員も増えないなか、人びとの生き方も価値観も欲求も多様化しながら個別化していくとなれば、ひたすら業務が増えてオーバーフローしていくのは目に見えている。
2019年の8月に厚生労働省の若手有志が発表した省内の働き方をめぐるレポートは、中央官庁がブラック企業も真っ青の職場環境にあることを明かし、省内スタッフの「生きながらにして墓場に入ったと思っている」という衝撃的な証言も紹介している。読めば読むほどに「〈働き方改革〉が真っ先に必要なの、あんたらだから!」とつっこみを入れたくもなるが、そういえば、覚醒剤所持で捕まった経産省職員は、残業が月300時間だったと供述していたっけか。
空気のような存在でいてくれるのはよいけれど、そうやって放置しているうちに、そこがいつからか瘴気に満ちた空間になっているのだとしたら、こちらだって、さすがに見て見ぬ振りもできなくなる。大丈夫か、おい、たのむよ、とならざるを得ないのは、行政府の健康は、私たち全員の暮らしの健康に関わる重大事だからだ。心身を蝕まれた公務員だらけの国を、さすがに誰も望んではいまい。ほっといてくれでは済まされない。そんな社会で老い先を過ごすことになるのかと思うと、行政府なんてものに無頓着できた自分ですら、さすがにぞっとしてくる。
というわけで、10年代も終わろうという2019年の師走に刊行したDIYムック『NEXT GENERATION GOVEVNMENT 次世代ガバメント 小さくて大きい政府のつくり方』は、半ば切実な危機感と、半ば大きなお節介から生まれるこことなった。行政府というものを、いまの時代にふさわしいウェルビーイングな感じでつくり直すことはできないものかと、老婆心とともに考えをめぐらせてみたわけだが、ソリューションということで言えば、海外なんかにはすでに役立つヒントはたくさんあって、デジタルガバメントの雄エストニアをはじめ、インド、デンマーク、英国、フィンランドなどの取り組みなどを、断片的にではあるけれど紹介してみたりはした。
と、ここで「ん?」となった方もおられるかもしれないが、世界にすでに先行事例がたくさんあるということはどういうことかと言えば、行政府のアップデートを必要としているのは、なにも日本だけではないということだ。冷静に考えてみればわかることだが、日本の官僚機構や行政府がヤバいことになっているのは、政治家の政策上の判断の愚かさはあったとしてもそればかりに帰するものでもなく、ましてそこで働く人びとの無能さややる気のなさの帰結でももちろんない。行政府のアップデートを、南太平洋のキリバスのような小国ですらエストニア政府のコンサルティングを受けながら取り組んでいると知れば、それは全世界的な課題と見ることができるわけで、それは、つまるところ長らく国家なるものを支えてきたこれまでの「行政システム」では立ち行かないと、およそ世界のどの国でもみなされているということを意味している。
遡ってみればそのシステムは、19世紀に整備されて世界中に広まった、よくてせいぜい工業社会に最適化されたものであって、工業社会をとうの昔に通り過ぎてデジタル社会に到達した21世紀のわたしたちの暮らしに、そんな昔のシステムが適合的であるわけがない。もちろん、そうなるまでの間にも、行政システムを大きくしてみたり小さくしてみたりと、さまざまな試行錯誤があったわけだが、とはいえ、そうしたアップデートではもはや間に合わないくらいに私たちの暮らしは、古き良き時代(というものがあったとして)から劇的に遠くかけ離れてしまっている。
本誌のなかでインタビューを掲載した、政府系のイノベーションラボであるデンマークデザインセンターのCEOは、その著者のなかで、行政府がいま待ったなしで自らをイノベートしなくてはならない、その外的要因を以下のようにまとめている。
1. 生産性の向上の必要性
行政府は、市民からも民間セクターからも税収をより効率的・効果的に使うことを求められている。かのドラッカーは、行政府は税収を最大化することに注力しすぎで、プロダクションモデルの最適化を怠っていると、1985年に指摘していた。
2. 市民の期待の高まり
民間サービスの質が高まり、ユーザーのリテラシーも向上していくと、同じような利便性や快適さ、カスタマイゼーションを行政サービスにも求めるようになる。社会が豊かになればなるほど、サービスに対しても同等の「豊かさ」を求めるようになる。
3. グローバリゼーション
クロスボーダー化するビジネスは、教育、学問研究、労働市場、金融などを流動化し、GAFAのようなテック巨人によってローカルビジネスは危機に晒される。グローバル化の恩恵を損なうことなく、いかにリスクを最小化するか。行政府の差配に大きな責任が宿る。
4. メディア
24時間365日、双方向での発信を可能にするデジタルメディア環境のなかで、行政府はいかに正確な情報を市民に提供し、透明性と信頼を保つことができるのか。さらにそうしたメディア環境のなかで、いかに公共活動への市民参加を促すことができるのか。
5. デモグラフィックの変容
高齢化や人口減少は世界的なテーマでもある。高齢者の増加は公共財源を圧迫するのみならず、行政府内での有能な若いスタッフの確保をも困難にしていく。
6. ショック
パンデミック、津波、テロ、ハリケーン、金融ショック、サイバー攻撃と、行政府はかつては想像もしえなかった予期せぬ衝撃に頻々にさらされている。予測不能な事態に素早く効果的に対応するために、行政府はゲームのルールを再考する必要がある。
7. 気候変動やSDGs
地球環境の持続可能性は地球規模の課題であり、この課題に取り組むにあたって行政府は重要な役割を担っている。SDGsにおいて掲げられたグローバルゴールを達成するためのイノベーションは、公民かかわらず、あらゆるセクターにとって急務となっている。
言うまでもなく、こうした環境変化への適応は、ビジネスセクターではだいぶ前からはじまっていたことだ。あらゆる民間企業は、デジタルがデフォルトとなった新しい環境に適合すべく、ビジネスモデルから組織編成からコミュニケーションのあり方にいたるまで全方位に180度の変更を迫られ、七転八倒しながら自己変革を遂げようとしてきた。背に腹は代えられない。アップデートはサバイバルと同義だ。
ところが、そうした努力の果てに社会が変わったように見えても、私たちの生き方や働き方を根本のところでかたちづくっている行政システムがアップデートできないことには社会は本質的には変わらない。スマートシティだ、ソサエティ5.0だと、いくら威勢のよい掛け声をあげて、スマートなアプリケーションが出揃ったところで、社会の一番奥底にある骨格の部分がサビだらけの機構であれば、せっかくのキラキラアプリも十全には作動しないだろうし、こうしたシステムの不統一やズレは、やがて重大なクラッシュをさえ引き起こしかねない。
新しい時代の公共インフラの基盤となるべきデジタルIDの普及も、ペーパーレス化もキャッシュレス化もままならず、デジタル署名すらハンコ業界のロビイングによってにっちもさっちも行かないようでは、社会はいよいよ遅滞していくばかりだ。そして当の行政府はといえば、そうやって古いシステムと新しいシステムの狭間で、紙の書類をPDF化するような無駄な作業だけが増えていくことで、生きながら入る墓場となっていく。まさにゾンビランドというわけだが、放置すればしただけゾンビは増えていくというのがゾンビ世界の常識だということを今一度ここで強く思い起こしておくのは悪いことではない。
(ちなみに紙書類に捺印する仕事をロボットにさせるというアイデアは、ゾンビ仕事をロボットにさせているだけであって、むしろゾンビを増やしているだけとも言える。ゾンビを奴隷として使役させればいいという発想そのものが、自分たちをゾンビ化させているということに、なぜ気づかないのだろう)
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1912/11/news079.html
公務員は自ら選んで公僕であるのだから安い給料で死ぬまで国民のために働くべきなのである、と思うのは自由だが、そんなことになれば終局的に困ることになるのは自分たちだということを忘れてはいけない。行政府が、かつてはやれていたようには公共サービスを支えきれないのであれば、道筋はおそらくふたつしかなく、ひとつは、みんなでそれを支え合うか、そうでないなら、公共というもの一切合財を失うか、しかない。
もちろんそんなものを失ったところで構わんよという向きもあろうけれど、本誌では、その立場は取らず、むしろ前者の道筋のなかで、いかに健全かつ安全に社会というものを取り回すことができるのか、その淡く儚い可能性を探ることを旨としている。行政府なんかなくなりゃいいと思ってたら、こんなお節介なムックをわざわざつくることもないわけだが、もっと言うと、なくなりゃいいとの考えが、このままほっておくと結構な確率で叶う願いだと思えば、かりに行政府が破綻してなくなったりしたときにでも、それでもまだなんとか人が安全に暮らし得る社会はありうるのかという問いも、このムックをつくる上で漠然と思い浮かべていたものだ。
それをつらつら考えるにあたっての最大の困難は、小さいのか大きいのか、右か左かといった昔ながらの二元論が、そこから抜けださなくてはいけない牢獄として繰り返し立ち現れてくることだった。そのなかでいくら右往左往したところで、果てしない堂々めぐりを繰り返すばかりになってしまうのは、そうした二元化された対立軸それ自体がこれまでのOSを前提としているからで、それどころか、その対立そのものがそのシステムに養われてきたものだと見切ってしまえば、そのなかでやりあっているのがいい加減無益な徒労にしか感じられなくなっている理由も腑に落ちてくる。ネトウヨだパヨクだと罵詈雑言を投げつけても投げつけても、うようよと相手が湧いて出てくるさまは、なるほどこれまたゾンビ退治にそっくりだ。
折しも、このムックをつくっている2019年11月に、アートフィルムのSVODチャンネル〈MUBI〉でジョージ・A・ロメロの傑作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』が配信されていた(現在は配信終了)。1968年のこの作品は、ゾンビ映画のハシリとして知られるが、単なるゾンビ撃退ホラーではないのが名画たるゆえんとされている。監督のロメロは、本来ならゾンビを撃退したヒーローであるはずの黒人主人公が、ゾンビではなく、味方であるはずの人間によって殺され、ゾンビたちと一緒に処分されてしまうという、めちゃくちゃ後味の悪いラストで作品を終わらせている。
本当のホラーは、ゾンビにではなく、人間の果てしない愚かさのほうにある。ゾンビはここでは「敵」ではなく、むしろわたしたち自身の写し鏡だ。一時的にゾンビに打ち克ったとしても、わたしたちはわたしたち自身を克服できないまま、永遠の愚かさに呪われつづける。MUBIのウェブサイトに掲載された論評はそう綴る。
https://mubi.com/notebook/posts/dead-reckoning-the-american-nightmares-of-george-a-romero
世の中が疲弊してくると、人はとかく外の誰かを悪者に仕立てあげて、疲弊の理由をそいつのせいにして溜飲をさげたがる。そんなときゾンビ化した官僚なんてのは格好の餌食となる。けれども、その結果が結局のところ自分たちへと返ってくるのであれば、自分で自分の生き血をすすっているのとさして変わらない。行政府を袋叩きにするのも結構だが、そのとき自分たちが叩いている相手が本当にゾンビなのか、いまいちどよく考えてみたほうがいい。なんなら、そうやって叩いてる自分のほうこそがゾンビの一群という可能性だってなきにしもあらずだ。
そもそもゾンビは自分がゾンビである自覚はあるのだろうか。あるのならまだ救いもあれど、自分がゾンビ化していてそれに気づかないのだとすれば、これほど恐ろしいこともない。みんなは無事だろうか? って、自分もか。